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唐津 現代 イメージ コピー
 焼き物のことを東日本ではせともの、西日本ではからつものといいますが、もとは肥前一帯で焼かれた焼き物を唐津の港から積み出されたので、こう呼ばれました。室町から桃山にかけて高温度施釉(せゆう)の焼き物が焼かれていましたが、秀吉が連れ帰った渡来陶工によって大きな影響を受けることになります。しかし、有田で磁器焼成が成功すると、有田付近の唐津焼はほとんど有田焼となり、唐津焼は衰退していきます。
 復興したのは、御用窯(ごようがま)の流れを汲む国の重要無形文化財の中里無庵(なかざとむあん)(十二代中里太郎衛門)に負うところが多く、無庵は古唐津の多くの技法を復元しました。
 唐津焼の種類は多様で多くの茶人に好まれてきました。唐津焼の主なものは、高麗茶碗(こうらいちゃわん)を手本とした奥高麗(おくこうらい)、本手(ほんで)と皮鯨手(かわくじらで)の瀬戸唐津、藁灰釉(わらばいゆう)と鉄飴釉(てつあめゆう)を掛けた朝鮮唐津、鉄、まれに銅釉によって絵を付け、透明釉を掛けた絵唐津、藁灰釉の青い斑(はん)文がある斑(まだら)唐津などがあります。唐津焼の大きな特色としては「叩き作り」をあげることができます。粘土の紐を積み上げ、内側にあて木をあて、外側を叩き板で叩く方法です。これも朝鮮から伝わった技法といわれています。
 現在、唐津焼は唐津市を中心に東松浦郡一帯や武雄市などに60近い窯元があります。唐津焼の作家中里太郎右衛門さんを紹介しましょう。


イメージ 13代中里太郎右衛門(13だいなかざとたろうえもん)
 叩きの手法で復活させた豪快な古唐津に、現代的な美感覚を持ち込んだのが、13代中里太郎右衛門さん。
 ろくろの上に粘土紐を積み、指で継ぎ目を密着させ、あて木を内側からあて、外側を叩き板でたたきながら壷や水差しを形作る技術を先代から継承します。この技法に東南アジア各地に伝わる叩きの手法を取り込み、玄海の魚文シリーズにペルシャンブルーの釉薬(ゆうやく)を掛けて、絵画風に仕上げた個性豊かな唐津焼を完成させます。


■叩き唐津象嵌魚文壺(13代中里太郎右衛門作)
(たたきからつぞうがんぎょもんつぼ)
1996年 C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵



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 唐人町の中里太郎右衛門陶房にある「御茶わん窯」。中里家5代「中里喜平次日記」によると、1734年(享保19年)に藩の命令によりここに移されたと記されています。明治になって廃藩置県の命が出るまで、多くの献上唐津(けんじょうがらつ)が焼かれ、大正年間までは中里家が使用していました。この窯は現在は廃窯となっていますが、窯壁面や焚口部分、天井部分など保存状態もよく残されています。 イメージ