磁器がわが国で作られるようになったのは、近世初頭、有田(ありた)の地において。李参平(りさんぺい)が有田泉山(いずみやま)で磁器の原料となる陶石を発見、焼成したことによると伝えられています。 有田磁器が、「伊万里焼」(いまりやき)と呼ばれるようになったのは、製品が伊万里港から出荷されたためで、国内はもとより、東南アジアやヨーロッパまでその名は知れわたっています。 有田焼が始まる1610年代から、技術革新によって雰囲気が変わる1650年ごろまでに作られた伊万里焼は「初期伊万里」といわれ、器が厚く、釉薬(ゆうやく)がとろりとして絵付けが荒いのが特徴です。 有田で上絵付けが始まったのは、1640年代。そのころの色絵の作品や陶片が残っていることがその根拠となっていますが、初代柿右衛門が1647年に「赤絵物」を長崎に持参した記録に基づきます。それまでの染付(そめつけ)という単色の世界から、多彩色による表現は、当時画期的なものだったと思われ、1640年代の最初期のものから、絵の具や表現が変化しはじめる1660年代のものを「初期色絵」と区分しています。 |
1670年代から1690年代にかけて流行した様式に「柿右衛門様式」(かきえもんようしき)とよばれるものがあります。この様式は赤や黒で細く輪郭を描いた後、赤、緑、黄で着色された文様が特徴で、乳白色の素地(濁し手・にごしで)に、余白を生かした絵画的な作品となっています。典型的なものは柿右衛門窯の制作と考えられますが、他の窯でも類似の物を数多く作ったので、これらを総称してこう呼んでいます。 「柿右衛門様式」は、初代から現代まで続いているように思われがちですが、酒井田家(さかいだけ)でいえば四代、五代のころで、江戸時代の一時期に流行した様式です。 「柿右衛門様式」の作品はヨーロッパに数多く輸出され、ドイツのマイセン窯やフランスのシャンティ窯で模倣されました。繊細で優美な作風がヨーロッパの王侯貴族を魅了したに違いありません。 |
この色絵婦人像は1680〜1700年ぐらいにつくられた柿右衛門様式の作品です。 頭部は全体のバランスからはやや大きく、反対に手は小さく華奢なイメージの色絵婦人像。一見アンバランスなプロポーションが女性的な優しさを醸し出しています。成形は、型により分けて作りますが、体側部以外は継ぎ目が見あたらないほど、丁寧な仕上げです。底には平たく無釉(むゆう)で、わずかながら布目が残っています。左肩後面に空気穴、口は内部まで彫り開けられています。 ■色絵婦人像(柿右衛門様式)(いろえふじんぞう)
1680〜1700年代 C佐賀県立九州陶磁文化館所蔵 |