幕末の有田は慢性的な不況が続いていました。1828年(文政11年)には大火にみまわれ、美濃や瀬戸で磁器の生産が盛んになり、肥前の磁器産業の独自性が揺らぎはじめていました。貿易は18世紀前半から衰退していましたが、1841年(天保12年)に有田の豪商久富与次兵衛が一手販売の権利を獲得して再開されました。久富は製品に「蔵春亭三保造・(ぞうしゅんていさんぽぞう)」という銘を入れました。自社ブランド名を有田の製品に記した最初のものです。 幕末における久富らによる独占的な輸出業は、他の商人や輸出をもくろむ窯焼たちの反感をかうことになります。また、赤絵屋(あかえや)業は16軒に定められていましたが、これについても拡充の要望が強く、貿易は深川栄佐衛門、平林伊平など新たに9人が許可されます。明治4年の廃藩置県によって長い歴史を持つ皿山代官所が閉鎖され、皿山の陶業は代官所による窯焼業や赤絵屋業の許可制がなくなり、営業が自由になりました。 |
|