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有田・伊万里 江戸時代後期 イメージ
コピー  幕末の有田は慢性的な不況が続いていました。1828年(文政11年)には大火にみまわれ、美濃や瀬戸で磁器の生産が盛んになり、肥前の磁器産業の独自性が揺らぎはじめていました。貿易は18世紀前半から衰退していましたが、1841年(天保12年)に有田の豪商久富与次兵衛が一手販売の権利を獲得して再開されました。久富は製品に「蔵春亭三保造・(ぞうしゅんていさんぽぞう)」という銘を入れました。自社ブランド名を有田の製品に記した最初のものです。
 幕末における久富らによる独占的な輸出業は、他の商人や輸出をもくろむ窯焼たちの反感をかうことになります。また、赤絵屋(あかえや)業は16軒に定められていましたが、これについても拡充の要望が強く、貿易は深川栄佐衛門、平林伊平など新たに9人が許可されます。明治4年の廃藩置県によって長い歴史を持つ皿山代官所が閉鎖され、皿山の陶業は代官所による窯焼業や赤絵屋業の許可制がなくなり、営業が自由になりました。

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 陶磁器は、無地よりも文様が描かれている方が情報量が多く、文様の特徴により大方の年代が分かりますが、絵具によってもその時代が推測できます。
 高火度焼成において釉薬の下に用いる彩料を一般に下絵具と呼んでいます。江戸時代後期磁器の下絵具は、藍色、茶褐色、暗紅色のわずかな種類で、後期の磁器窯に関していえば釉裏紅(ゆうりこう)が見あたらないことから、当時用いられた絵具は藍色と茶褐色、すなわち下絵具は呉須(ごす)がほとんどといっても過言ではありません。
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 有田の裏通りを歩けば茶褐色の土塀を見かけます。これは「トンバイ塀」といって有田以外では見かけることはありません。トンバイは、登り窯を築くのに使った内壁用の四角い煉瓦のことで、赤土と焼粉とを混ぜて固めたものです。窯の中が高温のため、表面がガラスのようになっているのが特徴。そのトンバイが登り窯を壊したときにたくさん出るので、使い捨ての道具であるハマ(磁器を焼くときに器物の下に置く粘土製の丸い敷物)やトチン(焼こうとする磁器をのせる粘土製の棒状の台)とともに赤土で固めて築いた塀が「トンバイ塀」です。
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