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有田の中心街から少し北にはずれたあたり。陶片を埋め込んだ土塀の横から龍山窯に入ると、庭のトクサの清らかな緑が白い砂に映えて美しい。青木龍山さんは、気さくな有田弁で出迎えてくれた。 工房は青木さんの祖父が大正5年に建てた焼き物陳列場を改造した木造。ちなみに代々焼き物にかかわった青木家だが、その祖父甚一郎は貿易商として成功し、神戸に出張所まで出した。製品はアオキ・ブラザーズ・カンパニーの頭文字「ABC」ブランドで売り出していたらしい。2階の廊下や展示場兼応接間に花器、皿、湯のみ、コーヒーわんセットなどたくさんの作品が並ぶ。そして「豊」「韻容」「豊和」など一連の展覧会出品作も。「形の張り、豊かさ、それだけを考えて作ってきた」という逸品ばかり。 ある日、この工房に一人のおばあさんが訪ねてきた。東北の人だった。愛用の龍山作の小皿5枚組のうち一枚が割れ、買い求めに来たという。 「ものを作る者にとって何よりうれしかことです。1枚欠けたからほしいと、わざわざ遠い所から来てくださる。その衝動。それは作る側も同じで、感動をもって作ろうとする衝動がなければいかんです」 白をベースとする有田焼のイメージからすると、青木さんの黒い器は異質に見える。実際「異端」と呼ばれたことさえあった。なぜ黒か。「よう聞かれるとですが、まあ好きだからとしか言えんですねえ。しいて言えば黒はイキな色ですたいね。黒と黒、黒い作品の背景も真っ黒という展示もなかなかよかですばい」 昭和29年に「花紋染付大皿」で日展初入選。以来日展を主な舞台に活躍。やがて天目(てんもく)で地位を築いた。平成4年に日本芸術院会員就任、作家として頂点を極める。 年譜を見る限り順調な作家人生だ。しかし平たんな歩みだったわけではない。まず東京美術学校の受験失敗がある。そして喀血(かっけつ)。時は太平洋戦争末期で青春は暗かった。 戦後胸の病気も治り、横浜で美術教師になったものの、父に呼び戻され祖父の興した会社に入る。ところが今度はその会社が不況のあおりで人手に渡った。昭和31年だった。フリーの陶磁器デザイナーとして一家を支えながら日展入選を目指す日々。しかも母親が当時病床にあった。 「あのころは毎日のまかない(家事)もおやじと交代でしよったですばい」。こともなげに語るが、「陶心一如」の精神で幾多の困難を乗り越えてきた。 従業員も弟子も置かない綾子夫人との二人三脚。今は子息で日展作家の清高氏が相棒になっている。 屋敷内ではちょうど新しい工房の造作が進んでいるところだ。やがて完成するこの仕事場から、父子の新しい傑作が次々に生み出されることだろう。 ところで「龍山の黒」と一般によく言われる。たしかに黒天目なのだが実は黒一辺倒でもない。「染付、染錦(そめにしき)もやるし、金砂、銀砂もよか。近ごろは赤絵をいろいろ試しています。今後どんなふうに変わるか、まだ分からんですよ」。新機軸はこれからだと言いたげにニヤリと笑った。 |
■青木龍山窯 JR有田駅から車で2分、徒歩10分。 展示場あり。駐車場約10台収容。 電話0955(42)3272 西松浦郡有田町外尾山。 |
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このコーナーは平成12年度に開催された、大英博物館佐賀県陶芸展への出品を控えた陶芸作家のみなさんにインタビューを行った記事です。記事は「佐賀新聞」に掲載されました内容を転載しております。 ※作品、作家の写真は、佐賀新聞社提供によるものです。 |
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