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トップ >> 元気印の窯元 >> 益次郎窯 |
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![]() ―おじゃまします。ご自宅で窯元業を営んでいっらしゃるんですね。実は住宅街だったんで、ちょっと道に迷ったんですよ。でも、あちこちに窯の看板を上げていらっしゃるお宅もあって、さすがやきものの街といった感じですね。 そうですね。私も初めて有田へ来た時には、すごい街だなと感動したものです。 ![]() 実は、私は茨城県の出身なんですよ。それで、出身地である茨城をPRしようというのが、「いばらき大使」なんですね。幼い頃、近所に遺跡がたくさんありまして、畑を掘れば、土器のかけらなんかがごろごろ出ていた所だったんですよ。今思えば、やきものに興味を持ったのも、この頃からかもしれませんね。いつも土器などを目にしていたせいか、考古学が大好きになって、東京国立博物館にも足を運んでは、よく発掘品なんかを鑑賞していました。今でも大好きなので、考古学の本はよく読みます。文章を書くのも好きで、同人会の「佐賀文学」で小説や随筆を発表しています。私の発表した文章を気にいってくださった方が、作品展に見に来ていただいたというエピソードもあります(笑)。 ―ところで、廣澤さんはとてもマルチな方のようですが、どうして有田焼のお仕事に就かれたのですか? 実家が農家で、私は二男坊。必然的に、家を出て、独立しなくてはと考えていました。はじめはやきものとはまったく違う職に就いていましたが、自分の中で何か違うなと思っていました。ほかに自分がやるべき仕事があるのではと、模索している時に、ふと幼い頃に見ていた、笠間焼のろくろ職人の仕事風景が鮮明に思い起こされたんです。「ああ、これだ。自分はやきものをやりたかったんだ」とひらめき、単身有田を訪ね、とある窯元さんにて修行させてもらいました。今でも覚えているんですが、入門をお願いしにおじゃました時に、そこで作った湯呑みでお茶を出されたんですね。その湯呑みがとてもすばらしく、「こんな物をつくれるようになりたい!」と強く夢を抱いたものです。 ![]() (設子さん)いいえ、私は主人と結婚してからのことなんです。もともと、手作業が好きではあったのですが、主人の影響もあり、3人目の子を出産したのちに、有田窯業試験場で絵付けを勉強しました。その後、磁器メーカーに勤め、今は主人が成形した器に絵付けをするという二人三脚の製作をしています。絵付けだけではなく、最近は和紙染なども15年前から手がけています。主人はこう見えても、結構厳しいのですよ(笑)。かなり鍛えてもらいましたね。 よく桜の花をモチーフにしたものを絵付けしていますが、私自身が好きな花なんです。見た方から「とてもきれいね。」「お花見しているようだ」と言っていただけると、本当に嬉しいです。 (廣澤さん)謡曲「桜川」の発祥の地は茨城ですからね(笑)。 ―廣澤さんは、磁胎象嵌というものに取り組んでいらっしゃるそうですが、どういう技法なんでしょうか。 ![]() その他、蓋物もよく製作しますね。蓋物って、何かはいっているのかなと、ワクワクする楽しみがあるじゃないですか(笑)。蓋物は蓋と、本体を別々につくるんですよ。だから、これも収縮を計算していないと、きっちり収まらなくなりますね。神経を使う仕事ではあります。 (設子さん)よく蓋物をつくっているからでしょうか、オリジナルで、自分が気に入った骨壷をつくりたいという方もいらっしゃいますよ。 ―わあ、そうなんですか。将来はどういったやきものづくりを目指していらっしゃるのですか。 ![]() 冗談を言ったり、すばやくフォローを入れたりと、廣澤さんご夫妻は、とても仲の良いご様子。お話を伺った後、お仕事場を見学させていただきました。成形して乾燥させた器に、ろくろと刷毛をつかって「水拭き」をされる作業でしたが、先ほどまでの和やかな空気とは一変して、ピンと張り詰めた雰囲気に。すばやく、そして正確に作業をされる廣澤さんを見ていると、静かな迫力が伝わってきます。 自然を愛する温かな気持ちと、確かな技術で生み出される器が、人に感動を与えることがちょっぴりわかったような一日でした。 |
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