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雑誌「太陽」の編集部にいたころは取材であちこちを飛び回っていた。その中には無論、やきものの産地もあった。特に中国・四国地方は日数をかけて丹念に歩いたことがある。当然、備前焼の里・伊部(いんべ)も訪れた。30年近く前のことである。
どなたの窯を取材させていただいたのかはっきり思い出せないのは遺憾だが、土を採る田んぼに案内してもらったり、閑谷(しずたに)学校に行ったり、戦時中に作られた陶製の手榴弾(てりゅうだん)を見せてもらったりした。もちろん、旧山陽道沿いの備前焼を商う店々も訪ねた。
そんな店の中の一軒で備前焼の酒盃が売られていた。中を三段ほどに仕切られたガラスケースがあり、それぞれの棚板に黒っぽい酒盃が並べられている。私は取材地ごとに、荷物にならない小さな物を記念に買うことにしていた。やきものの里では当然、酒盃だった。
手ごろの値段の物の中から色、形、手に持った感じで選んで売り番のおばさんに渡した。おばさんはその酒盃の底をジッと見て、「あら、これは○○先生の作だよ。この値段ではないよ」と言った。値札を付ける際、間違ったようなのだ。ご存じのように、備前焼には個人個人の窯印が彫ってある。
私は、呆然としたが、しかし、そのおばさんを非難できなかった。私こそ、人間国宝と若い陶工との出来の差を見分けられなかったのだから。
日本のやきものの中で特に備前は、作者を見分けるのが難しいと思う。原則として釉をかけない、絵を付けない、純粋に土と火だけでつくられるものだからである。ちょっと見ではすべて一様に「備前」なのである。見分けようとすれば、その物が発する「精神(こころ)」とか「力」とかを受けとめ、判断するしかない。
若かった私は釈然としない気持ちで、酒盃を買わずにその店を出た。そして他の店で、普段は蛸壷(たこつぼ)をつくっているというおじいさんが暇な時、「遊び」でつくっているという、実に安い酒盃を買ったのだった。 |
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