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私がよく読む現代作家の一人に宮本輝(みやもと てる)氏がいる。とにかくストーリー・テリングが巧みで、話題が広く、まさに「花も実もある嘘ばっかり」の小説世界がたのしく、また紀行・エッセイも味わい深い。そんな宮本氏の長編小説『森のなかの海』が光文社文庫に入ったので読んだ。
阪神大震災で危うく助かった三十代の女性の再生・復活の物語なのだが、作中で「やきもの」が重要な役割を担っている。小説家というのは、世の中のあらゆることに興味を持つ種族なのだろうが、作中人物の口を借りて語られる作者の「やきもの」観がなかなか堂に入っていて感心させられた。元陶芸家で現在は下関で居酒屋を営む男が語る。
これも五百年ほど前に朝鮮で焼かれたものです。私は粉引(こひき)も、茶碗や皿や徳利や壺をたくさん見ましたが、この徳利以上のものを目にしたことはありません。名もない朝鮮の職人が焼いたものです。…私が、半田葉鬼なんて、いかがわしい名前で、いかがわしいものを焼いていることがいやになったのは、この粉引徳利を見たときです。
全国に数多(あまた)いる陶芸作家の中で、こんな「良心的」な、謙虚な作家がどれくらいいるだろうか。その男は、少し前の場面では次のようにも言ってのける。
焼物と言いましてもね、いわゆる現代作家って連中の多くは、ブレンド物の土、ブレンド物の釉を使って、伊万里とか志野(しの)とか信楽(しがらき)とか井戸(いど)とか萩とか瀬戸とかを自分流にアレンジして焼いているんです。
そしてある土地に根をおろし、そこで窯を造り、土を自分で捜し、その土と格闘して、やっとみつけた技術をもとにして焼いた「本物」との差を語るのである。
現代陶芸作家の多くが抱えている問題をズバリ指摘して、さすがに小説家とは鋭い人種だと思う。
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