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「望料」という言葉は知らなかった。「もうりょう」または「もうりゅう」と訓(よ)み、有田では「ふた付きの丸飯碗」のことをいうのだとか。「日本国語大辞典」にはなく、「字通」「大漢語林」にも見当たらなかったから、有田特有の用語なのだろう。あるいは、韓国語の日本語なまりか。
それはともかく、7月22日付の佐賀新聞の論説で田代記者が、かつて有田では小物で一番難しい「望料」をいかに早く、同じ規格で、数を作れるかがろくろ職人の技を測る規準だった、と紹介している。一定の規準に達してはじめて一人前と認められ、給料も上がったという。
田代記者は、有田でも「作家」を目指す人が多い中、職人の技がどのように評価されているのか、問題を投げかけているのだが、飯碗づくりが技の基本に据えられていたということが興味深い。そういえば、魚蓮坊窯の松尾次郎さんからも二十年近く前、「やっぱい飯碗ばい」という言葉を聞いたし、クラフトの第一人者、森正洋さんが飯碗にこだわっていることはよく知られている。
くしくも同日の佐賀新聞地方面の「窯元さんぽ」に同じような話が紹介してあった。二十歳を過ぎて本格的に陶芸の道に進んだ中村清吾さんに、祖父である「ろくろの名人」中村清六さんが命じたことは「飯碗四千個、花瓶四百個」を作ることだったという。清吾さんは毎日、飯碗をつくっては土に戻すことを繰り返して三年でクリアしたというが、「伝統の家」でもやはり飯碗づくりが基本になっていることが分かる。
湯呑みではなく、酒盃でもなく、皿でも鉢でもなく飯碗ということが、いかにも日本的に感じられる、日々に米飯を盛る碗に思いを至す心根がうれしい。使い勝手のよさをきわめ、なおその中に「美」をこめる。これはあらゆる工芸品の究極のありようである。作る側がそこに精魂を傾けるのであれば、買って使う側も幾分かはそれを察知する義理があるだろう。
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