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昭和を代表する文芸評論家、小林秀雄の「骨董」という文章の中に、
○ なるほど器物の美しさは、買う買わぬと関係はあるまいが、美しい器物となれば、これを所有するとしないとでは大変な相違である。
という言葉がある。何だか禅問答みたいだが、その前にある言葉、
○ 骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである。
と併せて考えてみると分かり易いだろう。
これらの言葉は、小林秀雄という並外れた文学者の、骨董との、ほとんど血みどろの格闘の末に吐かれたものと解してよいと思う。
私は骨董には近づかないことに決めている。雑誌編集者になってすぐ、まだ二十代の半ばから数年、「骨董夜話」という企画を担当させられ、その世界を垣間見た結果、そう決めたのだ。もちろんお金がないというのが第一の理由だったが、私の性格からして、いったん骨董に近づいたら、その「魔」に取りつかれて身の破滅になりかねないと怖れたのだった。やきものについても、古い陶磁器を見るのは嫌いではないが、好きにならないように心がけてきた。小林秀雄は同じ文章で、
○ 相手はたかが器物とはいえ、嫌いではないと好きとの間は、天地雲泥の相違がある。
とも書いている。
だから私が相手にするやきものは今出来のものばかりだ。しかし、今出来のものが相手でも、冒頭の小林秀雄の言葉通り、「買う買わぬ」の違いは大きいと思いたい。
やきものを知る要諦は、それを所有して、自分のものとして日常的に使ってみることに始まる。姿、形、色、大きさ、使い勝手。なにゆえに自分はこれにこだわるのか。それを思うことが大切なのである。
私は日本酒が好きなので、いまそれを酌む「片口」を探している。二、三持ってはいるが、こだわるほどのものがない。これからどんなものに出会えるか、考えると心が躍る。
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