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今ではあまり読まれなくなったが、私の大好きな作家である川口松太郎に、『窯ぐれ女』という小説がある。「窯ぐれ」とは、文中に「窯のある町から町へ、流れ暮らしをしている焼物職人を(瀬戸では)窯ぐれと呼び、江戸時代から今に至るまで跡をたたない」と説明してある。
大正初期に東京・今戸の瓦焼きの家に生まれた一少女が「やきもの」に興味を抱き、両親の反対を押し切って、瀬戸在住の、強烈な個性をもつ名人陶工に弟子入りし、女陶芸家の道を歩む物語だが、作中のその陶工の言葉が、「つくる」側からのやきもの観をよく語っていて、新鮮である。
名古屋城の石垣を前に女弟子に語る。
○ わしらの陶器もこうありたいものだ。誰が造ったか判らぬが、名もない職人の仕事でいながら、美の極限に至っている。美しく造ろうと思えば卑しくなり、無心に造り上げてそれが美に至った時、真の美が生まれる。これが理想だな。
女弟子が上手く器をつくれないのを見て、
○ 土はいきているんだぞ。下手な奴に?まれると形を出さず、厭だ厭だというだけで皿にも茶碗にもならない。土ほど相手を見る奴はないのだ。お前にはまだ土を愛する心が生まれていない。陶土を物体と思っている間は、焼物師の資格がないのと同じだ。
また、
○ 教わって覚えたのは忘れるが、体の中へしみ込んだ技術は死ぬまで忘れない。俺のする事をよく見ていろ。然し俺の真似はするな。
この陶工は専門家以外の批評や鑑定を全く認めない。
○ 金を出して作品を買ってくれる人たちが批評家だ、安い金じゃないのだから。
これらは同じく、創作に携わる立場の川口氏の見解でもあろうが、「つくる」人たちの思惑や態度・姿勢などを推し測りながらやきものを見れば、鑑賞にさらに深みが加わるかもしれないと思い、一部を紹介した。
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