河井寛次郎(かわいかんじろう)氏の製陶もとうとう世の末になってしまった。
大正末期から昭和初期にかけての民芸運動の強力な推進者として陶芸に打ち込み、当時(昭和27年)すでに押しも押されもしない日本陶芸界の第一人者であった河井にこのような刺激的な言葉を投げつけた人は、誰あろう、かの北大路魯山人(きたおおじろさんじん)(当時69歳)である。
書家であり、篆刻(てんこく)家であり、料理人であり、「食器は料理のきもの」という持論から陶芸にも勤(いそ)しんで独自の陶器をつくった魯山人の、いわば同業者でもある河井に対する舌鋒(ぜっぽう)は、読む者がびっくりするほど鋭く、厳しい。
彼の作陶は聊(いささ)かも進歩していないのである…その原因は、彼が何十年間、何の勉強もしなかったことである。甘い連中の護(まも)りを受けて安閑としていい気になっていたことである。…残念ながら私は彼をここに見捨てねばならぬ。
と、情け容赦もない。
ここに、魯山人のいわゆる「唯我独尊」をみる人は多かろうが、私は少し違う。彼の意外とも思える真率な「やきもの」観をみる。彼はそれより約20年前、同じ河井氏の個展を見て、「もっともっと高い所」を目指せと注文をつけ、本阿弥光悦・楽長次郎・野々村仁清・尾形乾山・青木木米などの先達に学べと忠告していたのだ。自分はそうしているのだ、と。その期待を裏切られたがゆえの、激しい絶望の言なのである。
魯山人のこの発言に対して河井がどのような反応を示したかは知らない。案外、平気な顔で受け止め、「あの人らしい言い方だな」とにが笑いして、「でも、私は自分の信じている道を歩いているつもりだ」とつぶやいたのではないか。
いわば達人と達人の立ち合いだから、私たち素人には勝負の見分けはつきにくい。ただ、私はほとんどが「なあなあ」になりがちな批評の世界で、約50年前に、これほどの率直な物言いがあったことを知って驚くとともに、これまであまり好印象を持っていなかった魯山人という人物を少し見直したのだった。