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コーヒーカップで日本茶をのんでも平気な人もいるだろうが、私はごめんこうむりたい。山に登った時やキャンプ地でならともかく、家にいるときなら、日本茶はやっぱり湯呑みでのみたい。逆に、コーヒーや紅茶は湯呑みではなく、しかるべきカップでのみたい。
どんな器を用いようが中身は同じじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、それを言ってしまえばおしまいで、何も始まらない。そこに文化というものがある。やきものに限らないが、文化とは小むずかしいものではない。日常の習慣だって立派な文化なのだ。違和感を覚えるかどうかが文化を体得しているかどうかの岐れ目である。
そこが出発点で、あとは「趣味」の領域に入る。やきもので言えば、ある器を選んで所有し、好んで用いることによって、その人の趣味が示される。好みはそれこそ人さまざまだから、他人がとやかく言う筋合いではないが、そこにおのずから、高尚から低俗までの差が生じるから面白い。趣味の洗練という問題があり、それはどうやら人の教養と比例しているらしい。
湯呑みや酒器に始まった趣味は、生活を大事にしている人なら当然、日常に用いる食器すべてに及ぶだろう。それはやがて身近な家具、調度、はては服装、立居振舞にまで及ぶかもしれない。そうやってその人は「いい趣味」の人に育っていく―。
茶道の世界で「利休好み」とか、「遠州好み」というのは、千利休、小堀遠州といった際立った茶人の美意識のすべてが懸った、高度に洗練された趣味を示す茶器のことをいう。素人の趣味がそこまでの到達点を目指す必要はさらさらないが、自分ひとりの“遊び”として目標にするのは楽しいことだろう。
以上のようなことを考えたのは、最近、久しぶりに会った友人が、「日本茶をのむとき、俺は今、中里重利の湯呑みを使っているが、これがいいんだ。お茶が美味いんだよ」と話し、改めて彼の「趣味」に思いが及んだからだった。 |
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