テレビの仕事で一日じっくり伊万里市を歩いた。肥前のやきものに関して伊万里がどれほど重要な役割を果たしたかを改めて考えさせられた。
藩政時代、伊万里津はやきものの国内外への一大積出港として栄え、千軒在所(せんげんざいしょ)と呼ばれるほどの殷賑(いんしん)をきわめた商都だったのである。
伊万里の港が整備されたのは十七世紀後半といわれる。そのころ肥前磁器の積み出しが本格化し、それを重要視した鍋島藩はここに役人を配置する。
国外へは、よく知られるように、長崎・出島のオランダ東印度会社が、インドネシアのハタビア(オランダの東洋での拠点)を経由して、アフリカの喜望峰回りでアムステルダムまで運び、そこからヨーロッパ各地へもたらされた。「海のシルクロード」を経由してはるばる届いた精巧な肥前磁器は各地の王侯貴族たちに珍重され、「伊万里」はやきものの代名詞にまでなったのである。
もちろん、国内各地にも販路をもっていた。一時は八十軒もの陶器商がいたといわれ、筑前、紀州、下関、出雲、越後、伊予などから商人が盛んに往来し、全国に「伊万里」を売り捌いていたのである。
その歴史は明治に入っても続いたが、やがて鉄道が敷設されると拠点は有田に移り、伊万里津はだんだんさびれていくことになる。
いまはかつての伊万里津のにぎわいをしのぶべくもないが、伊万里川のほとりに白壁の土蔵造りの商家が何軒か残っており、伊万里市がそれを修理復元して、一般に公開している。「伊万里市陶器商家資料館」は、創業が明和元(1764)年という伊万里津屈指の陶器商だった犬塚家住宅の遺構で、往時の商人の生活文化を窺い知ることができる重要な建築物である。
隣はことし五月にオープンした「海のシルクロード館」で、これも元商家を再生したもの。一階には陶磁器のお土産コーナー、ろくろ・絵付けの体験コーナーがあり、二階はギャラリーとなっている。当日は水滴のコレクションが展示してあった。
大川内山の散策に出かけた折、伊万里市街にまで足をのばして、伊万里津の往時をしのび、夕食に伊万里牛をたのしむという一日プランはいかが?