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「美」とはきわめて直観的、主観的な判断であって、それに客観的な基準があるわけではない。私たちが芸術作品に「美」を見るとき、そのほとんどの場合、すでに先人たちによって「美」と認定されてきた物を追認しているに過ぎない。展覧会場で、展示物そのものより「解説」を読むのにより多くの時間を割く人が多いことでそれが分かる。陶磁器に関しても同じことがいえる。
昭和初期に活躍した特異な陶磁器鑑賞家、青山二郎はその著書に、
と述べている。
日本の陶磁器の「美」は長い間、茶の湯に叶(かな)う物だけに限られていた。茶の湯の完成者である千利休は、自らの命をかけて「美」を発見し、創作したのだった。
その流れは亜流を生みながら連綿と受け継がれたのだが、ようやく大正末期から昭和初期にかけて、その呪縛を解くべきことを学者や古陶磁愛好家が唱えはじめ、日本の陶磁器に新たな視界が開かれたのである。古伊万里や色鍋島が一般的に高く評価されるようになったのも、そんな気運のさなかであった。一方、素朴な古民芸に「美」を見出す「民藝」運動も同じころ興った。
つまり、私たちが美術展などで名品として鑑賞している多くの日本の陶磁器の「美」が定まったのは、そう古いことではないのである。
とはいえ、すでにその時代から七、八十年は経っている。はたしてこの後、どのような新しい「美」の発見、創作の動きがあるのか。
「美」を見ることはまことに難しいのである。
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