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書家で、料理人で、陶芸家でもあった北大路魯山人。評判になったある漫画のシリーズで料理の達人のモデルに擬せられたりして、比較的若い人の間でも名前だけが先行して“伝説的巨人”のイメージがあるようだが、伝記などを読んでみると、進んでお付き合いしたくなるような人物ではなかったようだ。
また、名だたる料亭などで珍重している魯山人作の食器のいろいろを雑誌などで見ると大仰すぎて、どうも私の趣味に合わず、「もう、結構です」と逃げ出したくなる。
ただ、「食器は料理のきもの」という彼の持論には、基本的に賛成である。
「単に食うというだけであったら、太古のように木の葉の上に載せてもよいのでありますが、それをより以上に持っていくためには、容器を選ぶ必要が起ります。食器と料理は、どこまで行っても、離れることのできない密接な関係にあります」という文章には十分、説得力がある。注釈すれば、「それをより以上に持っていく」というのがいわゆる「文化」ということである。
私たちの身近でも、ちょっとした料理屋に行って、そこの主人のセンスで、きちんとした食器を使っている場面に出合うことがある。そして料理と食器とが心地よいハーモニーを醸し出しているのが見えると、その店の見識がうかがえ、さらに料理がおいしくなる。その場合、食器は極め付けの名品である必要はなく、ほどほどの物でいいのである。
よくあることだが、食材は新鮮、料理の腕もまあまあなのに、食器の選択がぞんざいであったり、逆に食器だけが前面に出て、料理とミスマッチだったりする場合がある。
そのように、食器は料理と微妙に結び付いているわけで、行きつけの料理屋などでその点を注意して見ることで、私たちは一歩一歩食器というものが面白くなってくるのである。
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