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「唐津」(からつ)といえば、もちろん、秋の「くんち」で有名な北部九州の城下町の名前であるが、かつては、「瀬戸」(せと)がそうであったように、一般的にやきものを指す言葉だったのである。
唐津でのやきものの起こりについてはいろいろ説があるが、遅くとも室町末期にはいくつかの窯が築かれていたことが確認されている。しかし、やはり本格的に盛んになるのは秀吉の朝鮮出兵が契機で、佐賀の鍋島直茂、唐津の寺沢広高などの大名が連れて来た朝鮮の陶工たちが各地で窯を起こして以来である。
その範囲は広く、現在の行政区分でいえば、佐賀県では唐津市はもちろん、多久市、武雄市、伊万里市、東西の松浦郡、小城郡、杵島郡、藤津郡に及び、長崎県では北松浦郡、東彼杵郡、佐世保市などに分布し、百を越す窯が築かれ、おびただしい数の陶器が焼かれたのである。それらのやきものを総称して「唐津焼」とよんできたのである。
地域が広く、土地土地の土の味も異なり、それに合わせての釉薬(ゆうやく)の工夫、絵付の創意も盛んで、作風も多岐に及んでいる。しかし、いずれにしても重厚・素朴で静寂な趣の唐津焼はわび茶の精神に叶い、茶器として「一萩二楽三唐津」などと喜ばれ、今日多くの名品が伝世され、いわゆる「古唐津」として珍重されている。
唐津焼が最も盛んだったのは慶長から元和にかけて(1592〜1624)といわれる。それというのも元和二年(1616)ごろ、李参平が有田・泉山で白磁鉱を発見して磁器の焼成に成功し、さらに染付、赤絵付の技術が開発され、やきものの需要が陶器から磁器に移ったからである。以来、唐津の陶業は衰退していく。
しかし、当然なことだが、陶器には磁器では得られない独特の、奥深い趣があり、それを喜ぶ人たちの根強い支持もあって、現在でも多くの陶芸家たちが、あるいは細々と続いてきた窯の火を受け継ぎ、あるいは新天地を求めてこの地に窯を築いて、それぞれに「唐津焼」に挑んでいることは、よく人の知るところである。
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