― 柴田さんとのお付き合いはいつからでしょうか。
私が町長になる以前から存知あげていましたし、コレクションも鑑賞させていただいていましたが、親しくお話ししたのは、町長になってからですね。町長になったのが平成11年4月30日、ちょうど有田陶器市が開催されていた時でした。折も折り、有田町とマイセン市の姉妹都市提携20年の記念事業としてマイセン市から来有されたり、9月にはマイセン市のワイン祭りにこちらから参加したりしたのですが、その時、奥様が率先して「友好関係をしっかり築きましょう」と働きかけていただいたのですが、それが出会いでした。
ご主人の柴田さんとは柴田コレクション展PartZ(平成13年)でのお話しをお聞きした時からですね。
― 柴田さんのお話や、柴田さんがなされた事業などで思い出に残っていることはどのようなことでしょうか。
非常に厳しいことをお話しなさっていました。今後消費地のデパートや小売がどうなるのかということから、有田の生産・流通体制ではそれに対応できずに、有田の将来が危惧されるということを、様々な角度から研究されて、レポートにも述べられていました。しかし、当時の有田の人々はこのことを理解できなかったと思います。
柴田さんはよく気軽にいろんな集まりに参加なさっていましたし、気さくにお話しなさってもいました。そして徹底的にご自分で調べられていましたね。そういうことがあって始めて厳しいことをおっしゃることができたと思います。
柴田さんは有田焼に対する並々ならない熱い想いがおありで、絵の具の無鉛化や、環境にやさしい有田エコポーセリンなどの事業に取り組まれ、成功しています。コスト高という課題も残っていますが、これも含めて、柴田さんがなさったことやおっしゃったことを受け継ぎ、次の世代に伝えていかなければならない。今はその産みの苦しみの時ですね。
― 町長は柴田コレクションをよくご覧になったようですが、印象はどうでしたか。また、今後どのように利用してもらいたいとお考えですか。
見るたびに驚きが出てきますね。最初は「染付か」と思っていましたが、回を重ねるごとに、時代ごとに形や文様の変化がわかり、デザインの変遷がわかるようになってきました。これを見本にしない手はない。作り手も売る側も、もっと柴田コレクションを見て、有田焼の歴史や技術を勉強してほしい。作れば売れる時代はもう終わったんだから、これからは消費者が好むものは何かを知って、後世に残る有田焼を作ってほしいですね。
― 町長にとって一番思い出に残ることは何でしょうか。
それは、柴田さんからいただいたレコードですね。平成11年に約7,000枚のレコードを寄贈していただいたのですが、「よくも、こんなに集められたな」と驚きました。寄贈後にはほのお博記念堂で奇数月にレコード鑑賞の夕べをやっているんですが、毎回、飲み物やつまみを持ち寄り、季節に合った7〜8曲を披露しています。もう25回ぐらいになるかな、私も時間を見つけて聞きに行っていますが、中には鹿児島県や長崎など、地元以外の参加者が多いようです。もともと私はド演歌が好きでしたが、レコードを聴いていると「なるほど、クラシックのレコードとやきものは合うんだな」と実感しています。今は、50〜60人の方々が参加されていますが、もっともっと増えてほしいですね。
実は、柴田さんが亡くなられた後に、奥様にどうして集められるようになったかお聞きしたのですが、奥様が小さいころ、スケートでアメリカに行かれたことがあって、その時にご両親に買っていただいたのが始まりだったそうです。このレコードが縁で柴田さんともお会いになったと聞きました。
― 最後に、柴田さんが有田に遺されたものを今後どのように継承されようとなさっているのか、抱負をお聞かせいただけますか。
先日、20名ほどのツアーがあり、柿右衛門先生を囲んだ座談会で、絵の具の調合や伝統文化へのこだわりをお話しされたのですが、そのようにこだわりを持って作る人が少なくなりました。柴田コレクションを見ると作る人の気迫が伝わってきます。
そのように、人を感動させるものづくり、技術を持つ人づくりに努力していきたいですね。しかし、あと10年は柴田さんに教えを乞いたかったです。
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