― 柴田さんが大有田焼振興協同組合の顧問になられたのが平成11年ですが、どういう経緯からですか。
コレクションの寄贈後、青年部の「古伊万里研究会」の講師をされていました。その後平成10年に高島屋さんとの窯元めぐりや平成11年に京王プラザホテルで開催された「大有田ぷらざ展」での柴田コレクション展の講師などをお願いするようになり、いろいろとご指導をいただいていました。柴田先生の知識の豊富さ、見識の深さ、経営のノウハウなど大変な方でしたので、有田焼の産業、産地振興のために是非お力をいただきたいということから顧問に就任していただきました。
― 組合のどういう事業に参画なさっていたのですか。
冒頭にも言いました百貨店・ホテル・東京ドームなどのイベント、柴田コレクションのレプリカ製作、有田エコポーセリンの商品化、海外進出の戦略、まちづくり、それとニューセラミックスの開発などです。とにかく全てにわたって、ご自分で市場調査や消費者の動向を調べられ、膨大な資料を用意し、戦略を立てられ、事業計画を立てられました。その計画は原料の開発から技術開発、製造工程、流通、販売・プロモーション方法、顧客とのコミュニケーションの全プロセスのデータを元に、時には厳しい指摘をなさりながら指導していただきました。そして事業終了後には事業報告書、概要版などまでも執筆なさいました。
― 柴田さんは、会社の経営もなさっていましたし、その他たくさんの肩書きをお持ちでした。そして古陶磁の蒐集・研究をなさっていたのに、更にそのようなお仕事も。
そうです。ですから、午前中は会社の仕事、午後は九陶と組合を行き来して、研究や組合の事業のことをなさっていました。それも早朝の5時から、あるときは夜通し車を走らせて東京からいらっしゃることもありました。原稿や資料などもすぐさま用意されたりと、本当にすごい方でした。
― 有田エコポーセリン21の事業では、昨年外部デザイナーとのコラボレーションで商品化されましたが、柴田さんはどういう思いでこの事業を推進されたのですか。
当初は産地内でもコストアップにつながるとか負の事業だという反対がありましたが、先生は顧客に支持される商品をつくらなければならない、そして有田焼の出荷額減少を食い止める一つの大事な事業として取り組まれました。世界をリードするコンセプトで、環境負荷係数21%減、再資源率21%、強度21%以上、重量21%減、コスト21%減などの目標値を掲げられ、国際競争力のある商品の開発に着手されました。しかし、昨年から入院され心配をされていましたが、お亡くなりになる前に大口の注文があり、その報告をしに行ったときには、本当に喜んでくださいました。
― 筒井専務は柴田さんの最も近いところにいらっしゃったとお聞きしていますが、柴田さんはどういう方だったんでしょうか。
私心がなかった方でした。それはモノに対しても人に対してもそうでした。何を捉えるにしても、いつも視点が同じで、「お客様視点」を貫かれた方でした。お客様が何を望んでいるのかを知るためには、お客様のライフスタイルを理解しなければならないと常々いってらっしゃいました。
最初は私も先生がおっしゃることを全ては理解できずにいましたが、とにかく先ずお聞きしようという姿勢で接してきました。事業計画を立てられるときは、常に有田の産業・産地が生き残るためには、今何をしなければならないかということを考えておられました。
そのための技術向上にレプリカ製作、環境問題への取り組みとして有田エコポーセリン、と全てが有田が生き残るための手を打たれていました。
― そのためにはお客様の視点が重要だと。
そうです。従来の有田焼は重くて厚い、更に高い。これでは今のお客様には納得してもらえない。お客様の生活スタイルはどうか、食生活は、機能性は、洗浄は、収納は、食以外の用途は、競合商品の様変わりなど、器に関連するあらゆる情報を基に、時に厳しく指導されました。
今、5年間の資料を整理していますが、先生の発言は常に有田のため、そしてお客様の視点に貫かれていました。私は先生に生き方を学びましたし、私にとって生涯の師です。
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