― 手塚さんが初めて柴田さんとお会いになったのは。
10年前に開催されたほのおの博覧会のプレイベントとして泉山磁石場で野外劇をしたのですが、その時の模様をパネルにして、上京した折に奥様の所に報告に行ったんですよ。その時、奥様の横に柴田さんが座ってらっしゃって初めてお会いしました。
その時、私のところで登り窯をつくったので、そこで焼いた作品の写真も一緒に持って行ってたんですが、たまたま李三平の血を引く14代の金江省平さんの香合をお見せしたら、
「えっ、李三平の末裔のかたがいらっしゃるの?」と奥様が驚かれた時、横におられた柴田さんが、「稗古場(有田町)にいらっしゃるんだよ」と詳しい話をされるんで、びっくりしました。「えっ、この人はただのコレクターじゃなかったんだ」と思い、その後も色々なお話をして、「なんとか町の中に賑わいをつくりたいんですけど」というお話したところ。次にお会いしたときに、ドーンと机の上に分厚いファイルを置かれて、「こういう資料があるから読んどきなさい」とまちづくりの資料を渡され、その時もまた「えっ!」ですよ。
その後も、九陶からよく電話をいただき、「すぐ来なさい」と言われて行ってみると資料を渡されました。
― 柴田さんはまちづくりについてはどのような指導をされていたんでしょうか。
これから、有田が生き残っていくためには観光も大事だと言われていました。先生のイメージとしては、ホテルをつくったり、窯場をペンション化して、うまく回遊しながら4時間ぐらい過ごせる観光地を描かれていました。しかし、「町民の意識がそこにないんだよな」、とおっしゃっていましたね。
当時、ほのおの博覧会の時に中心商店街で街角イベントをやり、博覧会後に無くしてしまうのは惜しいということで、各商店街が連絡協議会を作り、べんじゃら祭実行委員会をつくったんですが、そこでいろいろと教えていただきました。その時に「有田の歴史をみると、先人は幾つもの危機を乗り越えてきた。いろんなものにぶつかって越えられるようになりなさい。そのためには周りにしっかりガードできる仲間を作っておきなさい」と言われました。
― 有田の音づくりについては。
これは奥様の発案なんです。5年前マイセンと姉妹都市になって20周年の祭典に、奥様と一緒に60人ぐらいで訪問したのですが、ワイン祭りの時に『有田デー』ということで盛大に歓迎してもらったんですが、至る所に音楽があふれていて、それをきかれた奥様が「有田もこういうふうに、音楽が聞こえるようになるといいわね」とおっしゃったんですよ。それから始まりました。その後、碗琴や陶磁器のオカリナで音楽を楽しんでます。
― 柴田さんからレコードの寄贈もありましたね。
ええ、ほのお博記念堂に約7,000枚あります。ほとんどが直輸入盤でクラシックが90%以上占めています。一つの曲でも指揮者ごと、年代ごとなど必要なものはほとんどあるようですし、それを聞く音質にもこだわっていらっしゃったみたいです。元々は奥様が小学校6年生の時にフィギアスケートの選手をされていたそうで、先生もされていたんですが、奥様のスケートのためにレコードを集め始めたそうです。
― もう、そのころからコレクターの素質があられたんですね。柴田さんが古陶磁をどういう風に蒐集されていたかというお話はお聞きになったんでしょうか。
いや、聞いたことはないですが、見聞きしたところ、最初のころは随分骨董屋を回られたようですね。2、3回目以降は業者の人たちが持ってくるようになったようですよ。私が上京したときも、そういう場面に出くわしたことがありました。
先生が入院されてから、江戸時代を網羅するために、物凄い勢いで集められましたが、その時先生は、「あそこにこういうのがあるから」と言われるんですよ。どこの骨董屋にはどういう物があるというのを全て把握されていたんでしょうね。
それと、入院されてからは温泉に詳しくなられました。「温泉に入ると足腰が伸ばせてリラックスできる」と言われ、これも徹底的に調べられたようで、旅行社顔負けでしたね。よく奥様の運転であちこちの温泉に行かれたようですよ。
― 柴田さんの近くにいらっしゃった手塚さんとして、柴田さんの一番の思いではなんでしょうか。
やはり、有田のことを常に考えられて、もう長くはないと思われて、ご自分の命と引き換えに有田焼の流通や産地表示などには相当苦言を言われていました。本当に有田の将来をご心配だったと思いますね。
それと、先生が亡くなった時に、奥様が「誰かこの頭の中の知識を使ってくれないかしら。もったいない」とおっしゃられたのが心に残っています。
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