― 鈴田さん(当時九陶学芸員)が、柴田さんと最初にお会いになったのは、柴田さんが初めて九州陶磁文化館にいらっしゃった時(平成元年4月25日)ですか。
いえ、その時、私は九陶の秋の企画展「日本の青磁」を担当していて、その準備をしていましたので、お会いしていません。実はその時に柴田さんが「青磁も持っていますよ」と大橋副館長(当時資料係長)に写真を見せられたそうです。そこで、6月27日に有楽町にあった会社まで行って、企画展に出品していただけるようお願いしたのが最初です。
― 第一印象はいかがでしたか。
非常に紳士的で、物腰の柔らかい人だなと思いました。会社の社長をされていたので、こちらは多少緊張していましたが、丁寧に対応していただきました。
そこでは企画展への出品依頼をして、また9月21日に青磁の作品を引き取りにお伺いしたのですが、実はその時にコレクションの寄贈の話をされました。
その後10月にコレクションの調査に行くまでは半信半疑でしたね。2,500点という膨大な数ですから。でも、実物を見て、「本当の話なんだ!」と実感しました。
― 柴田さんが九陶にいらっしゃってから、寄贈の申し出があるまで5ヶ月ぐらいと短い期間ですね。
勿論、その前からずっと考えていらっしゃったと思いますよ。九陶で学術的な裏づけがなされるということも大きかったでしょうが、やはり基本は有田でできたものだから、有田に返すというお気持ちだったんでしょうね。そして、地元の人に先人が作ったものを見てもらい、技術や意匠を研究して、いいものを作ってほしいという願いをお持ちのようでした。
― 簡単に企画展の柴田コレクションPartTから[までをご紹介していただきながら、どういう集め方をされたのかお話ししてください。
最初の寄贈は柿右衛門様式を中心に2,500点もありましたので、寄贈展は1回の展示では物理的に無理でした。そこでPartTとUに分けて展示をしました。どう分けたかというと、Tが変形皿を中心にまとめ、Uが7寸皿を中心に展示しました。展覧会をする前には図録を作るのですが、編集する際に年代のつながりや器の種類を整理していくと、足りないものがわかってくるんですよ、「この時代にこういう文様のものがあるはずだが」というふうに。柴田さんはこの時すでに、ご自分のコレクションとしてはまだ不十分だと言われていましたね。
PartVではTとUになかった茶道具や初期伊万里などの早い時代のもの、そして古九谷様式のものが集められました。PartV展は、柴田コレクションの常設展示室の新設を記念して追加寄贈された作品のお披露目展でした。
PartWではそれまであまり蒐集されていなかった18、19世紀のものを一気に蒐集されました。
PartXでは柿右衛門様式の成立期のものを中心に寄贈されています。
PartXまでは歴史を軸にした展示内容でしたが、PartYでは技術の種類を示す展示となっています。この展覧会のころ有田焼の窯元が柴田コレクションのレプリカを製作しましたが、江戸時代の有田焼を復元するのが原材料が変わってしまった今日では、大変難しいことがわかりました。
PartZは17世紀を中心に、Part[は18〜19世紀を中心に、それぞれ不足しているものを追加寄贈されています。
当初からPart[までを考慮にいれて蒐集されていたわけではなく、研究を深めながら、その時の状況に応じてテーマを決めながら蒐集されています。
― 九陶に10,000点以上の寄贈をされていますが、その一方で大英博物館にもコレクションを寄贈されていらっしゃるんですね。
ええ、大英博物館には平成8年に、501点を寄贈されています。これも江戸時代の有田焼が一通りわかる資料となっています。寄贈品の整理やリスト作りは私たちが九陶でしました。
柴田さんはヨーロッパには輸出伊万里しかないことをご存知でしたので、ヨーロッパの人々に有田焼の国内向けの姿を知ってほしいという思いが強かったようです。ヨーロッパ各地の美術館を調べられ、入館者が多く、アピールする場として優れた大英博物館を選ばれました。大英博物館に寄贈されたものは、特別に蒐集されたものではなく、例えば皿が10客出てきたら、5客は九陶へ、5客は大英博物館へと分けていらっしゃいました。寄贈された大英博物館側は非常に喜ばれ、お披露目の特別展を開いています。
― 柴田さんの蒐集にまつわるエピソードで何かご存知ですか。
古美術商との独自の情報ルートをお持ちでしたね。珍しい作品が出たら連絡が入っていたようで、どういう作品が市場に出たかをよくご存知でしたね。時には柴田さんの指示で、こういった業者の方から直接九陶に送られてくるケースもありました。
蒐集の仕方としては5客にこだわっておられました。欠品があると何年も熱心に探され、残りのものが出てくると追加寄贈し、先に寄贈したものと合わせて5客組にされました。そういう作品がたくさんありますよ。
― 柴田さんはこのコレクションは柴田コレクションではなく、正式には「柴田夫妻コレクション」ですと言われていましたが、これは何か理由があるのですか。
奥様もお若いときから美術品に興味がおありでしたので、かわいい小皿(手塩皿)や、色絵の古九谷様式のものなど蒐集されていました。それを見られた柴田さんが「これも、いいね」と思われて体系的に蒐集されたようです。このように奥様は美的なものやかわいいものを蒐集され、そこから柴田さんが展開させていったというものもコレクションの随所にあります。だからご夫妻の特質が活かされた、多様な魅力をもつコレクションとなったと思います。
日本では夫妻コレクションという名は珍しいですが、海外では多いですよ、その意味でも先駆的でしたね。
― 柴田さんとは10数年のお付き合いですが、鈴田さんがご覧になった柴田さんとはどういう方でしたか。
強い方でした。それは体力にしてもそうですが、意志の強さは並大抵ではなかったですね。かといって凝り固まった頑固さではなく、考え方は柔軟に更新されていました。
それに紳士的でしたし、私たちがコレクションを受け取りに行く際も、空港まで迎えに来ていただくなど、非常に気を遣われる方でした。
集中力も物凄かったですね。100枚200枚の原稿を数日で書き上げられたり、一生懸命に話しをされるので、奥様との約束を忘れてしまわれたりしていました。
とにかく、ストイックに蒐集されていましたので、真摯な姿しか思い浮かばないですね。
― ストイックと言われましたが、確かに蒐集や研究のために、他のことを切り詰めておられたという印象がありますが、それでもどこかそれを楽しんでいらっしゃるようにも思えたのですが。
そうですね。図録の編集作業が順調に進んでいる時など鼻歌が聞こえてくることもありました。また図録のレイアウトが決まったあとでも、「いいのが見つかったから、これも入れましょう」と嬉しそうに追加品を持ってこられることもありました。編集している私たちは大変だったんですよ。
また、キズがあっても資料的にいい作品は買われて、全部修理をして寄贈されました。奥様からお聞きしたのですが、「お嫁に出すんだから、きれいにしとかなきゃ」と言われました。ご夫妻にとって作品は娘だったんですね。
― そうだったんですか。最後に、柴田さんのことで一番思い出に残っていることといったら何でしょうか。
柴田さんがいい作品を手に入れられた時、私が「ああ、いいですね!」と素直に感じたことを言うと、それを聞いてまた一緒に喜んでいただいたことは忘れられません。そして、子供のように手に入れた時の喜びを話されるんです。そういう柴田さんを見ていると、このコレクションの素晴らしさを皆さんにもっと伝えなければいけないと思いました。
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