― 大橋副館長は有田では柴田氏とのお付き合いが一番長いとお聞きしていますが、最初の出会いはどのようなものでしたか。
15年前の4月25日でした。その前に「窯跡の出土品を見せてほしい」という電話をもらっていまして、実際にお会いしたら非常にお若くてびっくりしました。その当時はまだ50歳になっておられなかったですからね。
私が窯跡出土の陶片を案内してさしあげたのですが、その時、ご自分で蒐集された古陶磁のアルバムを大量にお持ちになっていました。アルバムの中には、柴田さんが20年かけて収集された17世紀後半の古陶磁約2,500点の写真がありました。当時柴田さんは無名ではありましたが、すばらしい収集品にびっくりしました。
当時、大阪の医師で山下先生という在野で有名な古伊万里研究者がいらっしゃったんですが、柴田さんはこの方に影響されて、実証的な研究をなさっていました。ところが、ご自分で蒐集されたものをどう活用したらいいかを考えていらっしゃったようです。そのような折、九州陶磁文化館(以下、九陶)ができて、窯跡から出土した陶片でもって考古学的に科学的に研究しているという噂を聞かれて、こちらへいらっしゃったようですね。
その後、2ヶ月くらい経ったころでしょうか、自分で美術館をつくったら大変だから、しかるべき所で管理してほしいということで、寄贈のお話がありました。そして私たちが千葉の柴田さん宅へ引き取りに行ったのですが、出るわ出るわ押入れやあちこちから。業者の人と行ったんですが、荷造りだけでも相当の日数がかかりました。
― 寄贈された翌年の1990年に柴田コレクションのパートTが開催されましたが反響はどうでしたか。
すごい反響でしたね。今までにない大コレクションということで評価されていました。特に地元の人がびっくりなさいましたね。
― その後20回ぐらいの寄贈をなさっていますが、この時にこれだけ続くと思ってらっしゃいましたか。
いいえ、最初の2,500点でもすごいことでしたから、これがその後14年間も続くとは思ってもいませんでした。終わったと思ったら次が来たといった感じでした。柴田さんも何回か、「これで最後ですね」とおっしゃっていましたから、柴田さん自身も終わりがわからなかったんでしょうね。
― 次々に寄贈をされていましたが、柴田さんはその都度蒐集されるテーマをお持ちだったんでしょうか。
そうですね。最初はお好きなものを集めていらっしゃいましたが、ご自分のコレクションの足らないところを考えられたのでしょうね。頭の回転が速かった方ですから、九陶での研究成果をご自分なりにあっという間に吸収され、ご自分の中で組み立てられたと思います。
九陶の方で色絵の展覧会をやったり、古九谷の研究が実証されてきたりといった、九陶での研究成果に呼応するかのように、それを具体的にもので証明されようとして、蒐集の方向が染付から色絵に移行され、精力的に蒐集されました。
当初は17世紀を中心に蒐集されていました。というのも18世紀や19世紀のものは古美術としての評価がひくかったこともあり、柴田さん自身もさほど興味を持ってらっしゃらなかったので蒐集されていなかったようです。しかし、それでは有田焼の変遷の全体像の紹介には不足が出てしまう。柴田さんの中では有田焼の変遷を知るうえで、18世紀から19世紀のものも欠かせないものとなっていったのでしょう。江戸時代の250年間の全体像をわかるようにしたいというイメージがどんどん広がっていかれたと思いますよ。
― 柴田コレクションは世界に類を見ないものと言われていますが、他のコレクションと比較してどこが違うのでしょうか。
古美術という観点だけではなく、有田焼の工業製品として刻々と変化する様を網羅的に蒐集されたコレクションということで世界に類を見ないものです。ある時代の一時期のものを蒐集したものは多数ありますが、このように江戸期全時代の変遷がわかり、尚且つどういったものが作られたかがわかるコレクションはないですね。
このような蒐集をするには、当然歴史がわかっていなければできないですし、技術やデザインなどの変遷を頭にインプットしていなければできないことですよね。そういう意味では柴田さんならではであり、これだけのことができる収集家はもう出てこないんじゃないでしょうか。
― 柴田さんが江戸時代の全時代のものを集めようと思われたきっかけはなんだったんでしょうか。
やはり、九陶の研究成果がきっかけだったと思います。九陶では窯跡や陶片の調査をもとに研究を行いますが、陶片ではやはり一般の人にはわかりづらいですよね。だから、柴田さんはそれを目に見えるものにして、誰にでもわかるものにしようという壮大な計画で蒐集されたんでしょうね。
しかし、14年という短期間で7,000点近く蒐集されたわけですから、その情熱とずば抜けた記憶力はすごいですよね。日ごろの活動を見ていて、やはり柴田さんでないとできないと思いました。とにかく東京から夜通し車を運転して、自分で持ってきちゃうんですよ。そして、朝ここに車が止まっているんですよ。通常では考えられないことですね。寝る時間も惜しんでされてましたから、本当に超人的でした。
― 有田の方々に聞くと、作るうえにおいて非常に参考になるというお話をよくきくのですが、県外の方々にとっては柴田コレクションが与えた影響というか反応は、どういうものがありますか。
それまで本に掲載されているものは名品ですが、ある一時期の古伊万里であったり、柿右衛門であったり、鍋島であったり。古伊万里といっても海外に渡ったものが載っているわけですから、偏っていたんです。だから、考古学の人たちが日本全国で発掘して、いろんな陶片がでてくるのですが、本を探しても全然載ってないので本が役に立たなかったのですよ。ところが柴田コレクションができてからは、陶片と同じものが伝世品としてあるので皆さん非常に喜ばれたようです。
また、収集家にとっても柴田コレクションは教科書的な存在になったと言えます。それまでは特定の時代のものしか蒐集されていなかったのが、幅広い蒐集がされ、評価されるようになったようです。
それと、窯跡の資料の研究、それに合わせて柴田コレクションの蒐集が進むにつれて、歴史を測るスケールにもなりました。それまでは、有田焼の全体像が判らなかったので、陶片が出土しても資料とはならなかったのですが、製造された細かい年代までわかるようになると、陶片が出た江戸時代の遺跡の年代が特定できるものさしとなっていきました。また、逆に有田焼がどう流通したかもわかってきました。
古伊万里というと、ヨーロッパの王侯貴族の館に飾られていた壷などが古伊万里と思われていました。これはヨーロッパの人も日本の人もそうでした。ところが実際は有田で生産されたもののうちヨーロッパなど海外に渡ったのは一割ぐらいで、大半は伊万里港から積み出され、日本全国に流通していったという、有田焼の実態がわかってきました。これに果たした柴田コレクションの役割は非常に大きかったと言えます。
― 柴田コレクションの今後の活用をお聞かせねがえますか。
昨年の6月に柴田コレクションの総目録を刊行しましたが。体系的に集められた膨大なコレクションですので、今後の研究に役立てるために作ったんですが、一般の方にはわかりづらいと思います。そこで技術やデザインの変遷を理解していただくテキストを作るのが第一歩だと考えています。それが柴田さんの遺志を継ぐことになると考えています。
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