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VOL.35 群馬文様(ぐんばもんよう) | ||
埴輪や出土した骨や馬具などから、馬は古墳時代(4世紀)以降に大陸から、その飼養技術とともに日本に移入され、軍用、輸送用、農耕用として使用されたと考えられています。
古代には、馬の飼養にあたる馬飼部(うまかいべ)とよばれる部民がおり、奈良時代から平安時代の律令制下では馬の飼養を担当する役所(左・右馬寮:さうめりょう)がおかれ宮廷の馬や官営の牧(場)の管理、諸国から朝廷に貢進された駿馬(しゅんめ)や軍馬の飼養を行いました。 武士が台頭する鎌倉時代以降は軍事的な重要性から馬は全国的に飼養されるようになり、東日本が良馬の産地として知られています。江戸時代には各種の厩方役人(うまやかたやくにん)がおかれ将軍の乗用馬や幕府需要の馬の管理、野馬の飼育、馬具の修理などを担当しました。 日本では馬は古くからの神の乗り物として神聖視されており、祈願や神祭の際に神の降臨を求めて生馬を献上する風習がありました。現在でも社寺に祈願のため奉納する絵馬はこの習俗を起源とするものです。 絵巻や掛幅や屏風などの絵画資料にも馬は多く描かれています。肥前国(佐賀県)出身で、毛利輝元の庇護を受け江戸時代初期に雪舟流を継承し雲谷派の開祖となった雲谷等顔(うんこくとうがん)(1547〜1618)の「群馬文屏風(ぐんまもんびょうぶ)」(六曲一双)には、水墨画で疾駆する野生の群馬が力強く描かれています。 また、馬は神への献上から縁起の良い動物として皿や壺や水指などの磁器の文様にも用いられています。写真は「色絵群馬文変形皿(いろえぐんまもんへんけいざら)」で有田の岩谷川内にあった初期の鍋島藩窯の製品と考えられます。糸切り細工と呼ばれる薄い粘土板を型に押しつけて成形する技法でつくられており、口縁部は折縁で黒線と緑絵具で紗綾形文(さやがたもん)を表し1条の赤線を巡らしています。見込みには染付で群馬図が1枚ずつ異なる構図で描かれており、群馬が集い戯れている様子は雲谷等顔の「群馬文屏風」と類似しています。 (森田孝志) |
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