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やきものにみる文様VOL.31 小野川関(おのがわぜき)




 相撲は弥生時代から五穀豊穣の吉凶を占う農耕儀礼として行われてきたという。さらに相撲は武術として鍛錬されるようになった。江戸期には、神社仏閣の建立や修繕の寄付を集めるための勧進相撲から、民衆の娯楽としての相撲に変化していく。宝暦、明和年間(1751-72)には大名抱えの力士も江戸にある師匠の相撲部屋に所属し、訓練されるようになった。この江戸相撲は天明から寛政年間(1781-1801)に全盛期を迎えた。

 この頃活躍した力士は谷風、小野川、雷電であり、三人は空前の人気力士となった。谷風は四代、小野川は五代横綱である。二人はそれまで前例のなかった横綱土俵入りをはじめて披露したことでも知られる。このころの相撲熱をあらわすかのように、浮世絵には勝川派の絵師らによる相撲絵がみられる。これらは、「役者絵」のようにブロマイドのようなものであったろう。谷風や小野川は多く描かれ、その人気をうかがわせる。

 浮世絵の影響からか、あるいは支持者からの注文のせいか、肥前磁器にもまれに力士を描いたものがみられる。写真の作品は小野川関を描いたもので、丸い窓絵に肖像、軍配、短冊には「小野川」の文字が白抜きであらわされている。染付皿の小野川は浮世絵の相撲絵に描かれたものと風貌がよく似ており、口はへの字口で眉は八の字、眼は下がり気味である。

 小野川は本名を川村喜三郎といい、滋賀県大津出身で牛飼いの子であったという。安永8年(1779)10月に初土俵を踏み、安永10年(1781)新入幕した。天明2年(1782)には4年間無敗であった谷風を破り、谷風の好敵手として人気を集めた。谷風も床の間に小野川像を掲げ、小野川の取り口を賞賛したという。身長5尺8寸(約175.7cm)体重31貫(116.3Kg)。寛政9年(1797)に引退し、抱え大名の久留米藩(福岡県)下屋敷(東京都港区芝)に小野川部屋をひらき、文化3年(1806)に没した。


(藤原友子)
 
佐賀県立九州陶磁文化館報
セラミック九州/No.38号より(平成15年発行)

■写真…染付窓絵力士牡丹唐草文皿
C佐賀県立九州陶磁文化館館
■編集・著作…佐賀県立九州陶磁文化館
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