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佐賀県の陶芸作家
 
作家写真 松本佩山
(有田町)
昭和2年有田町で初代松本佩山の長男として生まれる。23年東京美術学校(現東京芸大)卒業後、父の下で作陶を開始。26年第1回県展で佐賀新聞社賞、翌年第2回では知事賞。44年の19回県展まで出品委嘱。40年に耀変天目を完成後、公募展への出品をやめ、個展を中心に作品を発表。中国陶磁器の研究も行っている。佐賀美術協会顧問。
中国・南宋時代に名品を現代によみがえらせた耀変天目(ようへんてんもく)。深いあい色の器に光を当てると、青や緑、紫などが玉虫色となり、玄妙(げんみょう)で妖(あや)しげな輝きを放つ。一回の窯焼きで完成するのは2、3個だけ。作者の松本佩山さんは「似たような物を作る人はほかにもいるが、れっきとした耀変天目はうちだけしか制作していない」と胸を張る。
耀変天目は父・初代佩山のころからの目標だった。しかし、古陶磁で国内に現存するのは、かつて織田信長や徳川家が所蔵していた茶わんなどわずか3個。製法が不明で研究は困難を極め、結局初代は40年間の作陶生活をおくりながら完成することなく、この世を去った。

跡を継いだ松本さんもまた、耀変への挑戦に明け暮れた。原料となる鉱物の調合に苦心する日々が続いた。食事ばかりか水ものどを通らなくなり、入院した。

父の死から4年後、ある偶然がきっかけで夢はかなった。「窯のたき方を間違えたんです。みんな出来損ないだったけれど、一個だけ光る器が見つかって…」。その時、手にしたのが初めて完成した耀変天目だった。

普段は窯出しで人を入れることのない松本さんも、この時だけは真っ先に妻を呼び入れ、はしゃいだという。「窯たきの失敗がなければ、今でも必死に挑戦し続けていたんじゃないだろうか」と振り返る。

松本さんは学生時代に彫刻を学んだ。陶芸でも初めはオブジェを作ったが、初代の父親に「当たり前の物を作れ」と言われ、ろくろを習得。以後さまざまな作品を手掛けた。耀変天目以外に釉裏紅(ゆうりこう)、辰砂(しんしゃ)、油滴天目など作風は多岐にわたる。

中でも、色付きの釉薬を盛り上げて文様を施す「釉彩」は細かな技が光り、松本さん自身「もう二度と作ることはない」と言う力作もある。松本さんにとっては一つの技法にとどまらず、作陶に対する考え方の幅を広げることが大切で、若い人にもいろいろやってみるようアドバイスする。

初代佩山は、戦前に九州からただ一人帝展や文展に入選を続けた近代陶芸家の先駆的存在。だが、入賞で名前を売り出す公募展の在り方になじまず、戦後まもなく展覧会から身を引いた。松本さんも耀変天目完成後は展覧会への出品をやめ、個展活動が中心となっている。

「作品は人に評価されることよりも、まず自分が納得することが大事。まだまだやりたいこともあるし、これからも『さきがけ』をモットーに、人がしないことに挑みたい」
出展作品
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釉彩盛上牡丹文飾皿

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釉裏紅翡翠文飾皿

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■日恵窯(ひよしがま)
西松浦郡有田町稗古場
JR有田駅から車で5分。
駐車場3台分。展示場あり。
電話0955(42)2765
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このコーナーは平成12年度に開催された、大英博物館佐賀県陶芸展への出品を控えた陶芸作家のみなさんにインタビューを行った記事です。記事は「佐賀新聞」に掲載されました内容を転載しております。
※作品、作家の写真は、佐賀新聞社提供によるものです。
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