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岩永浩美氏 岩永浩美氏
■岩永浩美氏■Profile
参議院議員
大有田焼振興協同組合理事長
社会福祉法人慈光会理事長
(社)全国有線音楽放送協会理事長


― 議員と柴田さんとはご親交が深かったとお聞きしていますが、いつからのお付き合いでしたか。

 柴田さんが九州陶磁文化館(以下、九陶)にコレクションを寄贈された時からでした。それからは公私にわたってお付き合いをさせていただきました。話されることはいつも有田と有田焼のことでしたが、それだけ有田焼については並々ならぬ興味と関心をお持ちでしたね。

― 柴田コレクションを初めてご覧になった時のご感想と、寄贈された柴田さんについてはどういう印象でしたでしょうか。

岩永浩美氏 最初に見たときは驚きでした。こんなのが有田焼の中にあったのかと。第1回目は柿右衛門様式が中心でしたが、これも柿右衛門様式?と思うようなものもありました。
 当時、美術館などでは絢爛豪華な輸出された古伊万里に代表される美術陶器にシフトされつつある時でしたから、日常の生活食器に視点を置いた柴田さんのコレクションは、やきもの・生活文化を伝承していくには、非常に意義のあるものでした。
有田焼が好きで古陶磁を蒐集されていましたが、柴田さんはコレクターではなかった。この器が当時どういう使い方をされていたのか、ということを楽しそうに語られていました。それだけではなく、九陶では資料の収集や研究を時間を惜しんでされていましたね。そして、歴史的変遷を踏まえながら、理論的考察から深い洞察をなさっていました。その洞察から、有田の将来を非常に憂慮されて提言をされていました。自らデータや資料を集めて、有田が生き残るためには商品開発や技術者の育成、販路拡大のネットワーク作りを力説されていました。しかし、当時は悲観論としてしか受け止められていませんでした。
 ところが、現実に今有田は疲弊しています。あの時、有田の業界は柴田さんの提言を素直に聞いておかなければならなかった。

― 柴田さんを語るうえで、思い出に残るエピソードはどのようなものがありますか。

岩永浩美氏 精神力が強い方でした。持病で肝臓が相当悪かったそうですが、「長年つきあっていかなければいけないので、友達と同じでいいつきあいをしていかないと」とおっしゃっていましたね。
それと、あれだけのコレクションを寄贈されたにも関わらず、ご自分の生活は本当に質素でした。有田のとあるファミリーレストランのいつも決まった窓際の席で、朝早くから原稿を書かれていました。安いからあそこで朝食をしているということでしたが、コーヒーだけだったんじゃないかな。
 柴田さんは普段も冷静な方でしたが、私が佐賀県議時代、柴田コレクションの常設展示室を九陶に増設するときも、あるいは柴田さんが大有田焼振興協同組合の顧問となって事業をされたときもいつも冷静沈着でした。そして私心がない方だったので、普通の尺度では測れない人でしたね。

― 他の方々もやはり異口同音に、柴田さんは私心のない方だったとおっしゃっていました。

岩永浩美氏 そう、普通だったら蒐集したものは寄贈なんかしないだろうし、本当に有田焼が好きな愛陶家でした。私心がなかったからこそ、あれだけ密度の濃いコレクションが完成したと思いますよ。ところが、コレクションを所有するよりも研究をする方が好きな学者肌の方でした。九陶が安らぎの場所だったと思いますよ。
 また、柴田さんには私心がなかったからこそ有田焼の将来を憂い、厳しいことを話されたと思います。あれだけ有田の将来に警告をされた方は今までいなかった。ご自分の死期をご存知だったこともあり、鬼気迫るものがありました。

― 最後に、柴田さんのことで一番思い出に残ってらっしゃることは、どのようなことでしょうか。

 柴田さんは、本当に強い人でした。癌と宣告を受けられた後でも、淡々とご自分の病気について話しをされました。普通だったら狼狽してしまうところですが、実に病気のことも詳しかった。
 それと、柴田さんは技術者の育成のことを常に言い続けられてこられました。安易に作る方法を選び、技術者を解雇したらいけない。技術者は一朝一夕には育たないんだからということを強調されていました。
そして、柴田さんからは「有田に4年制の大学を」というご遺言をいただいています。今、私たちはこの具体化のために動き出したところです。


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