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柴田先生との伊万里話

 柴田先生を見ながら、「輝いている」と先生の奥さまがおっしゃった。それは、入院中の先生と伊万里話をしているときでした。
 先生が、佐賀の病院に入院をされたのは、お亡くなりになる1年前のことでした。時折、お見舞いにお伺いすると、もう治らない末期ガンだとおっしゃりながら、終始、伊万里の話でした。伊万里漬けの会話が続くのは、お会いした最初の頃より、変わりませんでした。
初めてお会いしたのは、柴田コレクションが公開される以前で、かれこれ20年位の昔のことです。そのころ、先生はコレクションの公開準備の資料研究をされておられました。私も、協力し、故山下先生の古九谷調査資料をお借りしてお持ちしたこともありました。先生は、喜んで下され、確かフランスのお酒を下さったのを覚えています。
 入院されても、伊万里に関しては、初心の頃と変わらず、一途でしたが柴田コレクションが完成したこともあり、より大局的に、伊万里研究を考えられていました。
 そこでは、柴田コレクションの不足を補充する視点でなく、他の伊万里コレクターへのアドバイス、伊万里と他の文化とのコラボレーション等々、話はつきることはありませんでした。
 その中でも、後期伊万里の皇室注文伊万里の話はよくされていました。これは、先生の研究収集の最後を飾った伊万里です。
 入院される、少し前、私のところに訪ねてこられ、「柴田コレクション展示美術館には、皇室注文伊万里が不定している。これを欠いては、後期伊万里の展開を語れない」とおっしゃる先生に私が持っている、皇室注文伊万里をお譲りしました。これだけでなく、私にも、残りのそれらを美術館に寄贈しなさいよと言われたので、そこで、私は、先生にプレゼントする方が、役に立ちますよと、お渡ししたのも今では懐かしい思い出です。
 先生のお話を伺っていると、中学生の頃から、根付コレクターで、古美術商に出入りしていたとのことです。根付けの見分け方は、インド象とアフリカ象の象牙の識別できないとダメですよと教えていただきました。伊万里だけでなく、他の日本美術の造形にも深く、まだまだ色々お教えを受けたかったのですが、入院中ゆえ、それもままならず、刻一刻と時間が過ぎさっていきました。
 先生は、柴田コレクションを通して、これまで先人達がなした伊万里研究の成果を、世の中に、広く紹介されました。その結果、伊万里ファンなら、伊万里製作年代を判断できるのが、当たり前の時代になりました。しかし、先生は、それを自慢することなく常に変わらず、最後まで一人の研究収集の徒として歩み、又、いつも多くの人々に伊万里の魅力を語られたのです。


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