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唐津 江戸時代前期 イメージ
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 茶人に「一楽、二萩、三唐津」といわれるほど愛されている唐津焼(からつやき)。唐津焼は佐賀県の西部から長崎県一帯で焼かれた陶器で、唐津港から出荷されたのが、その名の由来といわれています。
 唐津はその名の通り、唐へ渡る津(港)であり、対馬や壱岐を通じて陶工たちがこの地で焼き物を始めたのが、室町末期。それまで使われていた穴窯に替わって連房階段式の半地上窯が登場し、朝鮮国の技術が伝わった施釉陶(せゆうとう)の器が唐津市の南方、岸岳(きしたけ)山麓で焼かれるようになります。いわゆる「古唐津」(こがらつ)で、現在も七つの古唐津窯跡が残っています。
 1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の怒りにふれた領主波多(はた)氏が滅ぼされ、岸岳の陶工もこの地を追われることになります。このことは「岸岳崩れ」と呼ばれています。


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 その後、日本の焼き物の歴史は秀吉によって大きく変化していきます。秀吉が起こした文禄・慶長の役は「焼き物戦争」といわれ、朝鮮国から数多くの陶工たちが日本に連れてこられました。現在のような唐津焼は、約七万人ともいわれる朝鮮国の陶工たちによって作られたもの。彼らがもたらした蹴(け)ろくろと連房式登り窯によって、たくさんの焼き物を作られ、それらは唐津港から全国に売り出されていきました。


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 豊臣秀吉は、1592年(文禄1年)、1597年(慶長2年)の二回に渡り、朝鮮半島へ兵を出しますが、その際に朝鮮国の多くの陶工を日本に連れ帰り、日本で焼き物の生産に従事させます。このために朝鮮半島の焼き物の生産は、陶器に白土(しらつち)で化粧をし、その上に透明釉をかけた粉青沙器(ふんせいさき)や白磁の技術が一時途絶えてしまったほどでした。粉青沙器は唐津焼の母胎ともいえるもので、印花文(いんかもん)刷毛目(はけめ)鉄絵(てつえ)などの装飾技法は、ほとんどそのまま唐津焼に見ることができます。 イメージ
■粉青沙器印花文鉢
(ふんせいさきいんかもんはち)
15世紀前半
C佐賀県立名護屋城博物館所蔵