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講座「陶片を手にとって見る肥前磁器の技術変遷」
<会期:平成14年11月23日>
平成14年11月23日

 澄み切った青空に、ちょっぴり冷たい風が吹く晩秋の佐賀。11月初めから開催されていた、「有田ミュージアムズ連絡会」の教育普及の一環イベント「やきものおもしろ講座」に出席するために、佐賀県立九州陶磁文化館へ車をはしらせました。最終回は、九州陶磁文化館の副館長・大橋康二さんを講師に向かえ、「陶片を手にとって見る肥前磁器の技術変遷」という演題。会場となった九州陶磁文化館の大会議室には県内外から、20名ほどの陶磁ファンが集まりました。「今日は館所蔵の陶片を、実際に手にとりながら勉強を行います」との大橋さんの案内に、皆さんわくわくしたご様子。
まずは二人一組になって机につくと、12点の様々な陶片が入ったコンテナを各組にワンセットずつ配布されました。

 「コンテナ内の陶片はひとつを除いて、すべて肥前の物です。各年代の物を入れています。」と大橋副館長。さて、ひとつ残る陶片は、一体どこのものなのでしょうか?
陶片は、失敗作となったものや、いらなくなった物が捨てられた結果、窯跡の発掘調査などで出土されたもの。この陶片から、当時の製陶技術や流行していた器など様々なことが推測でき、陶片は陶磁史を探る上でも貴重な資料なのだそうです。
まずは、陶片を観察する上での4つのポイントを教えていただきました。一、土や釉薬などの材料。二、ろくろなのか型打ちなのかといった成形。三、絵付け、彫りなどの装飾法。四、目跡や針支えといった窯詰め法。この四点がやきものを見る際の必須の視点で、偏った見方では時代や産地などがはっきり推測できないとのことでした。

 「それでは時代順に陶片を見ていきましょう。最初は器と同じ土でできた、お団子がくっついている欠片を探して下さい。」と副館長。「ありました!」と手をあげる人や、「どれだかわからない」と悩む人もいましたが、わいわいがやがやと宝物探し気分で陶片をチェック。このお団子がついた土ものからは、「胎土目(たいどめ)」という窯詰め技法が推測されます。1580〜1610年頃に活用されていた技術で、何個も器を重ねて焼くときに、器と器の間に土のお団子を重ねていたのだそう。これは、コストを安くするために、一度にたくさんの器を窯詰めして焼成するために考えられた方法。焼きあがって、このお団子が器にくっついて取れなくなったものが、不良品として捨てられていたようです。
また1610年ごろからは土のお団子ではなく、砂を器の間に挟めて焼く、「砂目」という窯詰め法も出てくるのだそうです。「砂目」の陶片もコンテナ内にありましたが、先ほどの土の団子とはあきらかに違う、ざらりとした砂の塊が、器の見込みに付着していました。これらと同じ技法が、朝鮮半島にもあったことから、朝鮮半島より肥前に技術がもたらされたのだと推測されるそうです。

 次に初期伊万里の陶片を探しました。やきものの種類には陶器・磁器がありますが磁器の欠片でも「陶片」と呼ぶのだそうです。「探すポイントは、磁器で釉薬がとろりとしたもの。高台が小さいものですよ。」と、副館長。見事探しだした1640年頃の陶片には、染付で「雨香斉(うこうさい)」という漢字が見込みに書かれています。これは中国明代にて流行していたものを、肥前でも真似をして書いていたとのこと。
この初期伊万里の特徴とよく似た、小さな碗のかけらもありました。よく見ると、他の磁器の欠片と違い、高台に釉薬がかかっていません。この特徴ある器は1640〜1650年の間に集中するのだそう。大橋副館長によると、この頃になると陶磁器の需要が増え、生産が追いつかなくなることから、高台すべてに釉薬を付けて畳付きの部分だけを剥ぎ取るという手間を省いたためだろうとのことです。しかし、1650年以降、有田でも生産体制が整ったことから、こうした手間を省いた器はキズもののような扱いを受け、ていねいに釉薬をかける仕事に変化していったのだとのことでした。
また1650年頃の陶片として、型打ち成形のものもありましたが、ここで大橋副館長からおもしろいお話がありました。「肥前磁器の成形技術には、最初からろくろだけではなく型打ち成形があったようなのです。これは陶器にはないことです。この型打ち成形の技術は、朝鮮半島にはなく中国にはあったことから、中国から肥前にもたらされたのではと考えられます。まだ研究中ですが肥前磁器における技術変遷の謎のひとつでもあります。」陶片から壮大な歴史研究に及ぶことを知り、私もちょっぴり研究者気分。あらためて陶片を裏返したり、断面を観察してみたり。

 17世紀後半に入ると、有田でも大きな技術革新がおこります。それを語る陶片を選ぶことに。ポイントは、高台が広く高台内に何箇所かキズがあるものです。これは針支えという窯詰め技法を行った跡だそうです。高台が広いと、焼成した時に器が下にへたります。それを防ぐために高台を下から支えていたのです。この技術も中国から伝わってきたものと考えられるそうです。
この他にも、糸切り成型でつくられた変形皿を探したり、18世紀の国内向けにつくられたもの、18世紀後半の蛇の目高台と呼ばれる窯詰め技法のものを見ていきました。19世紀の陶片もありましたが、染付の青い色がぎらついた感じがし、他の陶片の青とは少し違います。これは中国から輸入していた、染付の原料「天然呉須」の量が減り、質が落ちてきたことが原因だそうです。各時代の陶片を手にしながら、最後の二つが残りました。

 「最後の二つのうち、一つが明治期以降の肥前磁器です。」と大橋副館長。この頃になるとヨーロッパからの製陶技術が取り入れられ、染付に使う原料が天然呉須にかわり化学コバルトが用いられるようになります。化学コバルトは鮮やかに青色を発色するそうで、これが探し出すポイントとなりました。確かに染付の色が、他のものと比べると明るく華やかな青色をしています。
ところで最後に残ったひとつはどこの陶片だったのでしょうか?答えは中国の磁器のかけらでした。素人目には肥前のものとどう違うのかわかりませんが、研究者の人もやはり基本の4つのポイントを観察して、中国産なのか肥前産なのかを推測するのだそうです。

実際の陶片を手にしながらの講習に、時間を忘れて没頭してしまいました。「皆さんが熱心なので、つい時間オーバーしてしまいましたね。」と大橋副館長も思わず笑顔に。九州陶磁文化館をはじめとして、有田町内の各美術館には陶片を常設展示しているところが少なくありません。今までは「発掘品ね」という程度でしか眺めていませんでしたが、教わった4つのポイントを考えながら改めて鑑賞してみるつもりです。
前回の「行ってきました見てきました―皿山ウォークラリー―」を含め、この他にも「やきものおもしろ講座」では、「土型」「文様」「久留米絣との文様の関係」「浮世絵に描かれたやきもの」などをテーマとした、興味深い講義が開催されました。やきものの発祥の地ならではの、豊富な資料や多方面からの研究成果、現存する生きた資料を満喫でき、ぜひ来年も様々なテーマで試みていただきたいと思います。

■ 取材雑記
この「やきものおもしろ講座」は合計で6回開催されました。人数制限がある講座もあったものの、第一線で研究されている方の講義を、すべて無料で受講できるというありがたさ。県外からの受講者もいらっしゃいましたが、同じ趣味のため、すぐにみなさん打ち解けました。知識も広がり、交友も広がるイベントですが、地元の人の関心が低いのがちょっと気になります。


■関連リンク 筒井ガンコ堂のガンコスタイル・陶片は語る